自己の不変のところと可変のところについて
最近ツイッターで流行っている性格履歴書とかいうものをやってみたところ、「嫌いなもの:ノリで生きる人」と出てきた。
クソ当たってるなあと思った。確かに、自分はそういうのが嫌い、というか苦手である。
かのような感情の理由はどういうことなのか昔考えてみたことがあるが、その際は「自己のあり方がコロコロ変わって節操がない、他者に合わせてばかりで自分がない」から、ということに落ち着いていたように思う。
やはり、他者の中になにか不変のもの、他に依存せずに常にあり続けるものを見つけられて初めて、それを源泉として確たる肯定を向けられるというような考えがあったのだろう。
肯定というのは、他者に向ける以外にも自分に向ける種類のものがある。所謂自己肯定というものだ。自分自身がまず「確たる自己」を見つけられず自己肯定ができていなかった裏返しとして、同族嫌悪的な意味合いで、上記のような考えが湧いてきていたというのもあったのかとも思う。
ここで、そもそも、「確たる自己」というもののみが肯定にふさわしいのか?という問いが浮かぶ。
ダメな自分を良くしていく営み自体を肯定することが大事なのではないか、とある先輩に言われたことがある。自己の可変の部分に対して、その変わっていく有様にこそ肯定を向けようというものである。
自己肯定自体は、不変の自分にも可変の自分にもできるというのは間違いないように思う。実際、「ノリで生きる人」に仮に不変の部分がなかったにしても、その事実によって自己肯定が出来ていないように見受けられることは少ない。(不変の部分の有無にしろ、自己肯定の有無にしろ他者が推し量れるものなど限界があるのは勿論のことだが)
ただ、そのような人々に苦手意識を抱いてしまっているような結局自分のような人間にできるのは、確たる自己の不変のところを作り上げてそこを肯定していくことだけなのかもしれない。かのような「作り上げる」営みと、自己の可変のところすらも肯定していく営みと、どちらが簡単なのだろうか。