なんらか

言語化をしていこうと思います

漫画における露悪について(浄土るる、阿部共実)

https://shincomi.shogakukan.co.jp/viewer/84/04/402/

もう随分前になるが、小学館の新人コミック大賞にて、浄土るる氏の『鬼』が佳作に選ばれ、話題を呼んだ。

その中で、阿部共実氏の漫画との類似性を指摘する声が多く上がった。

 

一見シンプルな絵柄、終盤で急変するストーリーの流れなど、確かに共通点は多い。

ただ、何かが決定的に違うのではないか?と、思った。

 

それは何か?露悪のあり方だ。

 

(ここから色々とネタバレ)

 

『鬼』では、主人公である小豆と友人になったと思われたポンポコが、最後の最後で小豆を盛大に裏切ることで、その作品の唯一無二の絶望感を醸し出している。

ここで、ポンポコ自身が「露悪」を引き受けたことで、小豆における閉塞が完成される。既に、家庭環境というかたちで小豆の閉塞感はかなり強いものであったところ、ポンポコの裏切りによってトドメが刺されたといったものだ。

この状況を、あえて他の漫画に類似したものを求めるとすれば、『カイジ』の安藤や三好・前田、『ミスミソウ』の晄、あと『デビルマン』の飛鳥などが挙げられるだろう。

 

ただ、阿部共実作品の多くに通底する「露悪」は、それとは違う類のものだ。

まず、読者の殆どに「こいつは悪だ」と思わせるような、言わば「露悪」を一手に引き受けるようなキャラクターが居ない。

強いて言うなら『空が灰色だから』最終回の川江と鈴田、野球回の千絵であろうが、彼女らもメインキャラクターではなく、主役の感情を揺るがすモブとしての役割が強い。

 

阿部共実作品の「露悪」は、人間単体に帰着され得ない、言うなれば学校や社会といった背景そのものに横たわっている。

ちーちゃんはちょっと足りない』を例に挙げると、まさにその題名自体が表しているように、ちーちゃんやナツには「足りない」ものが沢山ある。しかし、それは誰に責任があるものでもない。強いて言うなら社会であり、その構造である。しかし、その足りなさによって2人は行動の幅を失い、ナツは閉塞感に苦しむ。

ここに、「裏切り」のような、一気に閉塞に叩き込まれる出来事は無い。事後的に、現在の自分は行き場を失っている、ということに気付き、生きづらさを感じるのだ。こういった類の、初めから運命付けられていたかのような行き詰まりは、より打開し辛い、さらに言うと打開しようという発想にすら至らないこともある。

空が灰色だから』の『初めましてさようなら』(磯辺っちょと宮もっちゃんの回)も、まさにそういった、事後的な「死」という事実が、読者の心にダイレクトに訴えかけてくる。

ここに、阿部共実的な後味の悪さ、さらにそういった「上手くいかない」人々への共感・愛しさの真骨頂がある。

 

勿論、浄土るるの作品を批判する意図はない。誰かが露悪を引き受けることで読者に呼び起こされるものもある。最後の小豆の感情は間違いなく「絶望」であり、その落差も凄まじい。(漫画の表現的な話になるが、ここで小豆の表情が描かれていない(あえて描かない?)技巧もまた素晴らしい)

 

しかし、『ちーちゃんはちょっと足りない』のラストで、ちーちゃんとナツは笑っていた。『初めましてさようなら』のラストで、宮もっちゃんは泣きながら笑っていた。閉塞感は何一つ解決していないのに。「足りない」物同士での相互承認による一時的な果実の儚さ・美しさを感じることしか、読者にはできない。

社会自体に露悪が染み込んでいる中、それを否応なく享受してしまう役回りにある人間の閉塞感を丹念に描き出すのがまさに阿部共実の真骨頂であり、それは『鬼』とは構造的に違ったものである。

 

 

 

P.S.

浄土るる氏の別作品『神の沈黙』を読んだ。

上で述べたような、阿部共実的な閉塞が描かれており、こちら側もまた描けるのか、と正直脱帽した。

『地獄』も読んでみたい。いつ公開されるのだろうか。