なんらか

言語化をしていこうと思います

セカイを撃ち抜けるか?−『天気の子』『タロウのバカ』『ジョーカー』について−①

最近、映画をよく観ている。

 

休学をして時間的余裕が出来たからということが大きいが、映画という媒体でコンテンツに触れてきた経験というものが今までの自分にはあまり無かったということに、今更になって気付いたからというのもある。

 

で、とりあえずヒットしていた『天気の子』を観た。

見事にブッ刺さった。6回観た。

何故そこまでブッ刺さったのかは、この映画に流れる「肯定」の空気にあると思うが、これは後述しよう。

 

その後、『タロウのバカ』『ジョーカー』を観た。これらの映画もまた、とても惹きつけられるものがあった。そして、惹きつけられた理由の一つとして、これら2本の映画もまた『天気の子』と共通した構造があるのではないか、と考えるに至った。

 

もちろん、細かい展開や最後に行き着くところは、3作とも違う。 

しかし、3作とも、主人公の背景と、それに対置される社会の大きなシステム(「セカイ」とでも呼んでおこう)、そして主人公とセカイを繋ぐアイテムの描かれ方がかなり似通っている。言うなれば、

「共同体からあぶれた人間が、銃を持ってセカイと対峙する話」

と言うことができる。

セカイという言葉の、(ここで使っている)語義をもう少し掘り下げてみると、それは共同体単位の規模の先にある、主人公・登場人物・そして映画の観客の想像力の臨界点と言うことができる。それは『天気の子』では(原義)世界ではなく東京だし、『ジョーカー』ではゴッサム・シティである。『タロウのバカ』はもっと狭く、区や町内単位に収まってしまうかもしれない。

そういうわけで、以下の文で述べる「セカイ」は、所謂「セカイ系」の文脈で用いられるそれとは多少ズレてしまう可能性があることを予め付言しておく。「社会」とするとある種一義的な意味合いを持ってしまうかなと思い、より主観的な響きのある「セカイ」を使わせてもらった。

 

それでは、ここまで述べた構造について、各作品ごとに見ていこう。

 

(ここから各作品のネタバレがモリモリある)

 

まず、『天気の子』について。

 

最初にこの映画を観て、開始10分で

「あ、こいつ(帆高)は瀧くんとは違う。割と生きづらいタイプのやつだ」

と思った。顔面傷だらけで、離島から単身東京へ出てくる。雨から避難するほかの乗客の流れに逆行して甲板に上がった挙げ句「ヒャッホー!」とか叫んで飛び跳ねている。都心に出たら出たで、ネカフェ店員や駅員やスカウトマンに虐げられている。

都心の高校でカフェバイトとかやりつつ上手くやっていた感じの瀧くんとは対照的に、帆高は周囲の人間の流れや共同体の規範と反りが合わずに、生きづらさ・息苦しさを味わっている。この頃流行の乱暴な言い方をしてみると、瀧くんは定型発達で、帆高は非定型発達だ。

そんな状況で、唐突ともいえる勢いで物語に飛び込んでくるのが、だ。現代日本では持つこと自体が非合法な暴力装置。それだけに、その暴力を行使したときのインパクトは凄まじいものがある。この時点で、『天気の子』にて描かれるセカイは、前作『君の名は。』を遥かに超えて殺伐としたものになってしまっている。パンフレットで新海監督が述べていた通り、貧乏になってしまった日本、という直近の社会状況がまさにこのような作品の雰囲気を作り出しているのだろう。

さて、そんなセカイの中で、共同体からあぶれ「無敵の人」に片足突っ込んでいる帆高に銃を与えてしまう。これは冷静に考えるとかなり危険なことだ。ここで、すんでのところでK&Aプランニングという「共同体」に包摂してくれた須賀や夏美、そしてセカイ系の文脈で言う「きみ」であるところの陽菜の存在の大きさを実感できる。陽菜は、銃を暴力装置として行使した帆高を一喝し、所持を思いとどまらせる。そして、2人は陽菜の「晴れ女」の力を媒介しつつ、つながりを深めていく。これらは、帆高にとって大変な幸運であった。ギリギリのラインでセカイに踏みとどまり、健康で文化的な最低限度の生活を享受できているのだから。

しかし、事態はそう甘くない。セカイの側が、警察権力という形で帆高を追い詰めていく。その理由もまさに、1つが「共同体(島)から脱出したこと」、もう1つが「暴力装置(銃)を行使したこと」である。帆高の側からはギリギリで踏みとどまれていたように見えたセカイ自体が、それを許してくれなかったわけだ。

そして、逃避行の末、帆高はもう1度銃を使う。「愛にできることはまだあるかい」が流れ出す。曲の終了と同時に、帆高は陽菜のいる空(セカイの埒外)へ飛び出し、陽菜をセカイへと連れ戻してしまう。その結果として、セカイは変わってしまう。帆高がセカイを変えてしまったのだ。言うなれば、銃によってセカイを撃ち抜いてしまったのだ。

ここまでの流れは、「きみ」と「セカイ」が対置され天秤にかけられた結果、最終的に「きみ」を取るという、所謂セカイ系の文脈では頻出のものかもしれない。

しかし、『天気の子』の真骨頂は、ここからのエピローグにおける怒涛の肯定にある。

 

セカイの埒外において陽菜を連れ戻す最中、帆高は既に「天気なんて、狂ったままでいいんだ!」と喝破している。

しかし、3年後に実際に東京というセカイが水没してしまった現実を目の当たりにし、当然のことながら、当惑することになる。

そんな帆高に対し冨美(瀧の祖母)は、水没してしまった下町低地を「結局元に戻っただけだわ、なんて思ったりもするのね」と評する。さらに、その次に帆高が足を運んだK&Aプランニングにて、須賀は「世界なんてさ、どうせ元々狂ってるんだからさ」と言う。

この2人が、今現在のセカイのあり方を、そして苦悩する帆高を、追認するかのように肯定してくれる。

そして、帆高は、あの坂の上で祈る陽菜を目にした瞬間、「違う。やっぱり違う。あの時、僕らは僕たちは確かに世界を変えたんだ!」と、富美と須賀の慰めともとれる言葉すら否定した上で、最終的にセカイを変えてしまった陽菜を、そして自己を肯定するに至る。「僕たちは、大丈夫だ!」と。 

ここで肯定される自己。これは、自己の過去の選択そのものである。その当時の、既存の共同体に馴染めず、銃という反社会的な暴力装置を使ってしまい、挙句の果てにセカイを水没させてしまった自己の選択を。それでも、陽菜を救えたから、その選択は肯定に足るものなのだ。

そして、この肯定の矛先は、セカイでもある。既に冨美や須賀が言及しているように、2024年の狂ったセカイも、現状を追認する形で肯定されるべきと語られる。そして、エピローグにおける水没した東京において、概ね平常に生活が営まれる都市共同体、花見を楽しみにする人々の姿が描かれる。

宮台真司風に言うと、「終わりなき日常」。それが、降り止まぬ雨や水没した東京という一変したセカイにおいても終わらず、人々は概ね今まで通りに、現状を緩やかに肯定する形で生活を送り続ける。*1

東京上陸後の道中でその生活のありようを概観した果てに、田端の坂道で陽菜の元に行き着いた帆高が発する「大丈夫だ!」の客体には、このセカイも入っている、とすら思えた。

以上のように、この物語の主人公である帆高が、「自己」「他者」「セカイ」全てに深く関わり、深く考えた上で、最終的にその全てを肯定し、映画は終わる。共同体からあぶれた自己も、セカイの人柱になりかけた他者も、既存の価値観が崩壊したセカイも、全て肯定されるに足るものなのだ。その全面的な、包括的な肯定は、観客すらも覆い尽くす。

だから、自分は6回も『天気の子』を見に行った。6回、包括的な肯定を受けに行った。

 

まとめると、『天気の子』は、

「きみ」がいて、セカイに勝ち、肯定を勝ち取る話

だ。セカイという大きな物語に飲み込まれることなく、一個人としての自己に対する、愛する他者に対する、そしてセカイに対する確たる肯定を手にする、そんな映画であった。

 

しかし、この映画には、バッドエンドやデッドエンドに至るifルートも確かに存在している。 

 

『タロウのバカ』につづく

*1:ここで敢えて衒学的に宮台真司を出してみたのは、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』の冒頭にて、「3.11の後でも、そして永久に『終わりなき日常』は終わらない」との記述があり、これがまさに『天気の子』のエピローグで体現されているなと感じたからである