なんらか

言語化をしていこうと思います

元号が変わったので

それについての雑感を記しておこうと思う。

何らかの社会的な節目の時に自分がどう思ったかなどは後々になって参照しがちな、又しやすいものであろうし、実際後世になって「俺元号変わったときどんな感情だったっけ?」なんてことは覚えていないであろうし、それで探したけど何も感情が残っておらず散逸してしまったというのはまあまあ虚しいのではないかと思ったからである。

 

とはいっても、まあ、いまいち実感がない。

目下就活やら試験やらで忙しいということもあるが、にしても年号が変わるという(特に今回にあっては)予定された、それだけに余波も想像の範囲内におそらく治るであろう事象にいまいち乗り切れず、お祭り騒ぎをしている界隈にもそれを批判している界隈にもいまいち想像力を伴って見ることができずにいた。

(また、1ヶ月ぶりに家に帰ったところ新元号記念で家族写真を撮るという流れになっておりひどく当惑したのだが、これに関しては、考えてみると「節目に何かを残しておく」という点ではこの記事も大して変わらないのかもしれない。)

いよいよ俯瞰クソオタクも極まってしまったのか?と内心暗澹たる気分にもなった。ただ、その感情を考えてみると「良くも悪くも何も変わらなかった」という安心感、又は諦観のようなものがあるのかな?と感じた。

 

元来、自分は依拠する基盤としての共同体を希求している節がある。それは時期によって学校でもあり、部活でもあり、ゼミでもあり、バイト先でもあり、家庭でもあった。しかし、それらすべての基盤にあったのが、この日本という国である。先に挙げた中小の共同体は、安定性の面で難があることが多い。また、自分は最近引越しをすることで家庭という中間共同体をかなりの度合いで取っ払ってしまった。しかし、それでも変わらずにそこにあり、諸制度を通じ自己を(否応無しにとも言えるが)規定してくれる存在が、国であった。

自分がどうあろうと、国などの大きな共同体は不変の基盤であってほしい。セカイ系には極限まで不向きな人間であるが、そういう感情が自分にはある。そんな自分にとって、元号が変わるという事実が、国というものを大きく動かし、ひいては自己の実存を脅かすのではないかという、飛躍的かつ潜在的な不安があった。

しかし、自分のその不安など杞憂だと言わんばかりに、国という大きく安定した共同体は変わらずにいてくれた。。新元号だからといって、変わらず電車は動くし飯は食えるし電気も水道も使える。ただいっさいは過ぎていく(太宰治)し、人生はまだまだ続く(キュウソネコカミ)。そのような事実があったからこそ、元号が変わったということに「実感」が伴わないのだろう。

 

国家という最も基盤にあるもの、さらに言ってみればそれを形成する皇室や統治体制といったものの盤石さのようなものを逆説的に実感している、というのが言語化してみた限界であろうか。

 

何にせよ、令和が終わるくらいまでは元気で生きていたいものである。

上皇陛下が生前退位という道を開いてくださったお陰で「(元号)が終わる」と「崩御」が同視されなくなり上の文が不敬ではなくなったという点で御英断だなあとなった)

 

【近況】

試験をひとつ終えた 発表がGW挟んだあとなのがなかなかきびしい