言語化について
またもや久しぶりになってしまった。習慣にせねばならない。(のか?)
さて、目下思考がもやもやしている。なおかつ、ぐちゃぐちゃしている。
考えてみると、ここ2年ぐらいはそんな感じである。
どうしてこうなっているのか、こうなってしまったのか。
高校(自分の性分にクソ合っていた)を卒業して大学に入り、そのあまりの性分の合わなさに社会についていけるか不安になってきたあたりから「思考停止で生きていける時代は終わってしまったんだなあ」という気持ちになってしまったが、かといって確立できる思想もないため細々と新たな思考が湧いては溜まりを繰り返している、というのがだいたいのところであろうが、そうなるとやはり心にもよくないし、なにも成長がない。
ということで、こういうふうに日本語として表出していこうというわけである。
ここで、言語化することのメリットを考えてみる。
①思考がぐるぐるしなくてすむ
思考がぐるぐるする、まあ無駄だなとなる。3周目ぐらいから薄々ぐるぐるしてるな〜となって不毛な気持ちになるし、自己嫌悪も湧いてくる。一旦言語化して記録かつ発散しておくことで、ぐるぐるさせておく必然性が薄まってよい。
②思考がある程度整理できる
先述したように、ぐるぐるしているのに3周目でやっと気付くぐらいには自分は思考を整理できていない。ここで、一旦表出して整理してみることで、思考を俯瞰かつ発展させることがある程度出来てよい。
③そういうのの力をつけられる
記述力が欲しい。現状として只つらつらと書いているだけだが、継続していたら将来的にはもう少し整理して書けるのではないだろうか。そうなるとよい。
④自己顕示欲を満たせる
よい。
デメリットもある。
①負のフィードバック
言語化してみた思考が正しいとは限らない(まあ「正しい」思考など無いとはおもうが幸せになる的な意味で)。しかし、一度書いてしまうと言語化という作業のコストも相まってある種の権威性を持ってしまうかのように感じる。それがどんどん悪循環に陥ってしまうような気もする。
②時間がかかる
この記事書くのに3日かかってるのが何よりの証左である。
なんにせよ、言語化はできるうちが華である。二進も三進もいかなくなった、または言語化できる暇もなくなったらどうなるかということを考えると、なんとも恐ろしい。
以上のような言語化が出来るのも、モラトリアムであるところの学生のうちなので、今ぐらいはせいぜいやっていこうとおもう。
それでは。
【近況】
名取さなに課金した